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笙野頼子『金毘羅』

 出生直後に死んだ女の子に宿った金毘羅が中年となって、自身と母金毘羅の記憶を回想していく一代記。神と仏、あるいは神同士の習合であるとされる金毘羅神が、海に生まれ落ち、死んだ女の子の中に入り込むシーンからこの小説は始まるのだが、以降のあらすじの要約は非常に難しい。  まず時系列が恐らくは意図的に一貫した時間の軸は隠されているのだ。回想中にまた回想し、語っている回想から未来を予告し、繰り返し話は脱線する。語られているエピソードそれぞれの、ストーリーとしてのまとまりは薄く感じられた。というか、読者を楽しませる作劇からは離れているように思う。話の筋を追うのではなく、もっと別の読み方をしなければ、この作品は挫折してしまうかもしれない。そしてそのためには忍耐が必要だ。それと神話の基礎知識も必要だろう。残念だが僕にはなかったけど。  『金毘羅』は私小説にカテゴライズされる作品であろう。デビューして十年芽が出なかったこと、純文学論争への言及などから、語り部と笙野が重なって読むことができる。「コレハ『私小説』デハナイ」と明記されてるため、この下敷きになったというには問題が残るものの、関連作として短篇「胸の上の前世」が挙げられよう。また、直接の続編には「私」が終盤で海に帰した「本当は男」でありながら「後世女にされた」男が語り部となる『萌神分魂譜』がある。この三作で共通して扱われる問題がジェンダーの揺らぎである。  主として、生物的な性を指すセックスと対称的に、ジェンダーは文化的・社会的な性を意味する。つまり性器の差異によって大まかに二分される雌雄・男女とは別に、その社会で「男」・「女」として相応しいとされる規範を指し、その社会が変化すればその社会で培われた規範も変化するという性質を持つ。「男らしさ」、「女らしさ」の概念である。  「胸の上の前世」においては自分がヘテロ――異性愛者だと確信を得た夜の夢で女性だった「私」は男となって男と恋をすることとなる。  『金毘羅』では「私」は乗っ取った女の子の家で「本当は男」である女として育つことを強要される。  『萌神分魂譜』の語り部は前述したとおり、「本当は男」でありながら「後世女にされた」男である。  自認していないジェンダーを纏って生きることは強い違和感や苦痛を伴う。だが、女であることのみでデメリットを与えられることがある。『金毘羅』内では「女子が料理を作って男子がそれを食べる」という活動のエピソードに顕著である。自由課題の時間に投票で、男の方が多いのだから多数決では男が絶対勝つ投票でそう決まったため、「私」を含む女子は簡単なものしか作らないことにしてサンドイッチを作る。大量の作業。だが当日になって知らん顔をしていた一人の男子が「嬉々として料理を作っている無知な女達」を拒否した。 (以下引用)  まったく迷惑だよ、男だって料理なんか出来るのにさ、というもう家事さえ出来たらジェンダーバイアスを全部克服出来たと思い込むのが彼らの特徴です。というか当時はそういう難しい理論はなかったので、そういう男は「色気づいた女子のプロポーズまみれの料理を食わされて将来寄生されたくないねえ、だって僕平等主義者で馬鹿女とは違うのだ」というご立派な態度を取っているだけなのでした。或いは私、つまり「担当の女子」がブスだったので切れただけかもしれませんが。  彼は市販のプリンとホイップクリームを持ってきて泡立て、サクランボの缶を切ってプリンにそれとクリームをあしらいました。「あーきれいだ、ふん、こっちはこっちでやるからね」、「まったくさあ迷惑なんだよ女子は」――汚いものを見るように白目をちらちらさせてこの「差別的な企画に参加している(せざるを得ないだけの)汚い女達」に嫌悪を表す相手は、しかし断言するがどうしたって美少年ではありません。土俗な顔です。もとい、ぶさいくーなどっつらです。 (引用ここまで)  そして「私」はこの男子に卵を茹でていたお湯を「別に自分の意志でなく相当量掛けた」。この顛末は作品の象徴的なシーンでもある。
 「選挙」とも表現される教室という体制の権力を持つ男によって女は従わされ、見えないことにされた彼女たちの意志は勝手に解釈され、支配されてしまう。それに対する反抗、カウンターとしての「私」のあり方がここに表れている。  「私」自身でもある「金毘羅」は神仏習合や分離によって神話から抹消され、別の権力を持つ神に統合された見えない神の残滓や怨念であるとされる。それを「私」は「カウンター神」と称する。大勢の人間を動かす力という権力を持つマスコミ・オカルト、恐らくは性の対象として搾取される女性たちを消費するという意味でのロリコンへかけられる熱湯。そしてそのための祈りの一環として猫の置物が登場する。「私」は猫にかなりの愛情を注いでおり、それはただ愛するというよりも自分がカウンターであるための守り神的効能を持っているかもしれない。  この「カウンター神」の確立は、十五歳の「私」が経験した宗教論争の相手であった「老人」が持つ私的信仰が影響している。「私」はある山を訪れるが、そこで出会った「老人」は九州にしかないはずのタカマガハラを、ここがそうだと言って譲らなかった。それは何故だったのか、「私」はこう考えている。 (以下引用)  どの村でもどの登山口でも自分の祖先がいる山が彼らの各々の、全国各地の数だけある、タカマガハラだ。そしてそこが彼のいる場所で彼にとっては世界の中心だ。彼がそこをタカマガハラと呼ぶ限り、彼は国家からタカマガハラを奪還し、自分のものとし、自分が国家に奪われた宗教とプライドを取り戻しているのだ、その世界では彼が最も高貴で愛される存在なのだ、と。 (引用ここまで)  その経験を持つ「私」は伊勢での画一的な信仰イメージを佐倉市で崩されたこともあり、出雲神話を極めて私的に、「自分の夢の中で自分の心理の中でどのように暗示をかけどのように納得して耐えていくか。それだけのために」「神話を読み替えた」。「反逆神道」とも「私」は言う。 オオナンジとオオクニヌシの関係を「私」は独自に解釈し、「私」は日本の、神話を含んだ歴史を「女の功績を消す、奪う歴史として」定義する。「私」は女が戦い生き残っていく試みとして神話の読み替えを行ったのである。