村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

 ゆっくりでもいいから、村上春樹全集を読破しようと思って半年。学校の図書館に借りられたままだった第四巻が帰ってきていたのですぐ借りて読んだ。一週間と少しかかった。

 実はこの作品、二年前にも読んだことがあったので通読は二度目だ。村上春樹作品は、『ノルウェイの森』や『アフターダーク』の系列の現実路線と、『1Q84』『海辺のカフカ』といったファンタジー路線の二つに大まかに分けられる。もちろん例外とか、中間点もあるんだろうけれど。『アフターダーク』は本当に現実路線なのか、とか。確かに「私たち」の人称やテレビの中のシーンは現実離れしている。でもとりあえず分けられるということにしておく。

 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は後者に属する。
 「組織(システム)」と「工場(ファクトリー)」の情報戦争に巻き込まれる「組織」の技術者である「私」の「ハードボイルド・ワンダーランド」と、金色の毛をした一角獣の住む壁に囲われた街で「夢読み」として暮らすことになる「僕」の視点で進む「世界の終わり」が交互に繰り返されるスタイルの小説だ。

 ただ普通に読めば、いつもの村上春樹ですね、といった感じ。はいはいオシャンティオシャンティ。パスタでも煮て食ってれば? 
 その最たるシーンの一つが、中盤にさしかかったあたりにある。「ハードボイルド・ワンダーランド」のパートで私の家に二人組の襲撃者がやってくる。そして彼らは私の大切な所有物から壊していく。ベッドから服から、冷蔵庫の中にいたるまで全部が駄目になる。それが私の一人称で淡々と叙述される。止めようと叫びはしても、強く止めに入るような、強硬な姿勢は描写されない。
 最終的には、襲撃者の一人とひっくり返ったソファを戻し、それに座ってビールを飲み始めてしまう。

 シュールだ。

 そのシュールさに惑わされてはいけない。私という人間はひどく心を閉ざしている。それは極めて希薄な表現でほのめかされるだけだが、昔の大きな感情をきちんと処理できていないことがうかがわれる。描写されないということは、その感情が大きすぎて語れない、という考えができるからだ。
 で、それを抱えた私は理不尽な襲撃者に対し、抗議はするものの、すぐにそれを投げ出してしまう。怒りや悲しみのようなものは別の情景に変換され、どことなく感情を抑圧しているような印象を受ける。

 心を閉ざすということを、この小説は私が家で仕事をする際の警戒や、壊されたアパートのドア、様々に形を変えて描かれる。それは第三回路である世界の終わりの原形になったのかもしれない。
 私がなぜ心を閉ざしているのか、ということは明らかにされない。自分の悲しみを誰かに伝えようとしても誰にも伝わるはずがなく、だから諦めてしまった、というようなことが独白されるだけだ。

 自分が自分のままで社会で生きることがどれ程困難かは簡単に想像できる。そしてそうしようとしてもほとんどの場合失敗するということも。じゃあどうするか、と考えたときこの作品は三つの方法を提示している。
 心を閉ざして誰にも理解されなくてもいいと開き直ること。心を誰かに預けて踏み台にすること。心を辛いところから逃がして辛くても自分でいようと決意すること。
 一番目は社会性や協調性がないとされ、二番目は弱者を踏みつけにしている。最も尊い選択肢かもしれない三番目は、実は誰も幸せにならない。辛さはなくならないし、社会からは排斥されるだろう。
 クライマックスで、世界の終わりの僕は、三番目を選ぶ決断をした。