太宰治「道化の華」

 読んだ。すげーなこれ、すげーつくりしてるな。びっくり。

 さて、今回は太宰治の「道化の華」。作品の構造は多層構造で、大庭葉蔵を主人公とするパートと、それを小説として書いている僕の語りが入り交じりながら話は展開していく。

「大庭葉蔵はベツドのうへに坐つて、沖を見ていた。沖は雨でけむつていた。
 夢より醒め、僕はこの数行を読み返し、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思ひをする。」

 違う語りが交互に展開する、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』よりもこの二つを隔てる境界線は曖昧だ。葉蔵の物語を読んでいると、次の行で作者の僕が叫んでいたりする。読者は葉蔵の物語を読みながら、僕の言葉を聞くことになる。

 大庭葉蔵というのは、太宰の代表作である『人間失格』の主人公の名である。完全な同一視はできないが、女性との心中を経て一人だけ生き残ることや、社会主義運動、画家等の点で共通点も多い。多分「道化の華」が『人間失格』に繋がっていく。

 葉蔵は女性、園との心中のために海に飛び込むが一人だけが助かり、病院に送られる。その数日間を描いた作品だ。『人間失格』の後半の場面と酷似している。
 葉蔵はどこか飄々としながらも脆く、語り手は彼と彼の友人を救いたくて小説を書く。しかし語り手自身の言わば弱さからその試みは挫折してしまう。語り手の嘆きが繰り返し挿入される。

 空気をよくするために行われる議論、さらけ出して交わることの忌避、様々なことがままならない彼らに対し、現代の若さ、みたいなものと強い共通性をみる。葉蔵と現代の若者ではその性格の成り立ちから異なっているだろうが、私にはどうにも繋がっているように思えてならない。