新海誠「君の名は。」

 やっと見てきました。新海の映像は本当にきれいで、アバンの彗星でちょっと泣いた。何も事件が起こってないのに!

 さて、「君の名は。」は新海誠の最新作⚫大好評上映中のアニメ映画。ネットに感想を公開する性質上、迷い混んでこられた未見の方が楽しみを奪われないようにあらすじを最小限にとどめると、地球にティアマト彗星と呼ばれる彗星が近づくなかで、飛騨に住む女子高生の三葉は東京の男子高校生の瀧と人格が入れ替わってしまう。人格の不定期な交替を繰り返しながら互いの存在は徐々に大きなものとなっていく……といったストーリー。

 新海の書く映像の美しさは誰もが認めるだろう。アバンの彗星や、夜空、東京と田舎の風景、何もかもが新海の書き換えによって非常に美しく表現されている。特に三葉から見た東京は、彼女の憧憬のフィルターもあり、ごみごみとした下層部ではなく青空に真っ直ぐ伸び、太陽を受けるビル群のきらめきがスクリーンを埋める。地方から中央へ向ける眼差しの一面がここにある。ルサンチマン混じりの華やかな都会のイメージだ。

 後半部はこれまでの新海作品のコラージュ的カットが提示される。
 俗世から離れた隠り世とされる飛騨の御神体星を追う子どものアガルタであり、宇宙の映像はほしのこえのアップデートであり、瀧に降り注ぐ雨は言の葉の庭の御縁に降る雨を想起させる。そしてこれらの持つ「別れ」「喪失」のイメージを、過去作品の総括という形を取りながら、読み替えようとしている。

 「ほしのこえ」に始まり「言の葉の庭」まで突き詰めてきた主題が「君の名は。」で全く異なる場所に着地したことについては賛否両論だろう。ここでは賛の立場をとりたい。カタルシスを与えそうな予感を積み重ね、そこで突き放す物語の快感を与えないことで視聴者を強く揺さぶるある意味で近代文学的作風から、観客が見たいものを見せ、観客の欲しいカタルシスを美しく提示する現代サブカルへ的作風への変化は間違いなく作家⚫新海の成長であろう。
 東浩紀の指摘した<萌え>の構造がこの作品に息づいていて、これまでのデータベースを違う角度で読み込み(シミュラークルの生成に程近いものだろう)、観客を感情的に揺さぶるというプロセスに成功しているのだ。

 <萌え>、<データベース>などの概念によって成立されたウェルメイドな作品、という評価は避けられないかもしれないが、そう断ずるのは簡単なのだ。ここでは実はウェルメイドではないのでは、という風に考えたい。できるかなぁ。

 このデータベースによって支えられた「君の名は。」は瀧と三葉の恋愛が主軸に据えられているが、なぜ入れ替わり現象が瀧と三葉に起こったのか、これは即ち二人の恋愛は必然と偶然の産物で主体性がない、設定だけのものだと評価される。それが<萌え>を生成するデータベースの効用である。
誤解を生みかねない、非常によろしくないであろう表現をするなら「中身のない空疎な作品」であり、
それがウェルメイドという淡白な評価の一因であろう。

 まず入れ替わり現象について、映画内の情報を覚えている限り整理する。
①入れ替わりは週に二度ほど。
②睡眠がトリガーになる。
③入れ替わっている間の記憶は徐々になくしていく。
④入れ替わりのときに行われたことは基本的に残る。
⑤原則的に相手が死ぬと入れ替わりは起きなくなる、ただし例外的に糸守の御神体に捧げられた、相手の口噛み酒を飲めばまた入れ替わる。
⑥黄昏時、口噛み酒、御神体の条件で時間を越える。
⑦宮水家の血筋に連綿と続いていること
 の七点だろう。

 ここで重要なポイントが「境界」が大きな要素となっていることである。入れ替わりがすでに地方ー中央の境界を越境することであり、それが反復されているのだ。ここでの地方には飛騨がおかれ、中央には東京がおかれる。
 飛騨はティアマト彗星によって死の土地と化していることから、飛騨は過去であり死者の世界ともいえる。東京は飛騨に降り注ぐ彗星のことなど知らず、ティアマト彗星を美しい貴重な風景として扱っていた。

 三葉や瀧が足を踏み入れることになる御神体は隠り世、黄泉の世界だとも提示されており、入れ替わりは過去へのそこうでありながら、死者の世界と生者の世界の越境であるともいえよう。トリガーとされる睡眠も死のメタファーであろう。

 巫女という要素もまた死の世界と生の世界の越境者としておかれているし、そこには口噛み酒の生々しい体液的な性質が提示されている。また、巫女自体にも性のイメージは含まれている。

 なら瀧は? 瀧はただ運命という作者の独善によってしかロマンスの主体になりえなかったのか?

 瀧の状況を整理すると、物語開始時には頬に絆創膏をし、イタリアンでバイトをしており、バイト先の先輩の奥寺に恋をしかけていている、という非常に少ない情報だけが分かる。
 頬に絆創膏、という少年的情報について考えると、弱いくせに喧嘩っ早いという性格からそれによる怪我だと推測できる。そして絆創膏が必要になる怪我ならば口の中が切れていてもおかしくはない。

 そして性にまつわる越境をも瀧は経験する。三葉と入れ替わった瀧、つまり三葉の人格をした瀧を友人の司は「可愛かった」という旨の発言をしている。男から女へという変化を認めさせる素地が瀧にはあったのである。瀧自身、奥寺とのデートの際には、遅刻しそうになるもあわててよそ行きの服に着替えてほとんど手ぶらで家を出る、待ち合わせ場所では奥寺に手を引かれて赤面するといった行動がある。これはラブコメにおける旧時代的ヒロインの所作であり、それを瀧がなぞっているのだ。

 体液が口の中を通り、性にまつわる越境者でもあるという共通項が二人にはあったのである。


 カタストロフ回避後、過去は改変され、二人も互いを忘れてしまう。
 三葉は上京しており、瀧は就活生となるもうまくいかない。
 彼の就活がうまくいかない原因は彼自身の越境失敗にある。異界に越境し、うまく帰って来ることができないのだ。

 面接では志望理由を問われ「風景が好き」「風景に関わりたい」といった非常に素朴な、稚拙な理由である。瀧はモラトリアムを終えようとしており、大人にならなければならない。しかし「ここではないどこか」を求める焦燥や欠落によっていまだ高校生の子供のままだ。だから「瀧にはスーツが似合わない」と司や奥寺に評されてしまう。

 子供のために就職(=大人の世界)に移行できない、という状況がすでに以前の新海作品から離れている。以前ならば欠落を抱えたまま苦労せずに就職を決めてしまうか、就活さえできないだろう。瀧も就活をただしなくてはならないからしているだけかもしれないが、以前ならばただ就活をこなすことさえもしないかもしれないのだ。

 だが就活をする。神の権威によって強引に過去を修正したことによって与えられた欠落を抱えたままの瀧は、「何か」を求めている。それは実際に瀧の行動として表れている。
 過去に三葉が東京で瀧に列車内で会ったとき、瀧は単語帳を見ており、過去であることもあり三葉に気づかない。

 しかし今回は外を、モノローグを語りながら見ている。必死に探しているわけではないが、消極的かもしれないが、外に目を向けているのだ。だからこそ、並走する列車の中にいる三葉を見つけることができた。
 三葉を見かけたときの駅名表示は四ッ谷駅だったように思う。四がついていたことは確かで、これは四と死の繋がりであろうが、四から死を連想するのではなく死を四に読み替えているのだろう。
そして二人は階段で出会う。