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三島由紀夫『豊穣の海』第三巻「暁の寺」

 三島由紀夫の手がけた大河小説、「世界解釈の小説」四部作。第一巻「春の雪」は一年生、第二巻「奔馬」は二年生と一年ごとに読み進め、三年の夏に第三巻「暁の寺」。大学生活のライフワークみたいになっている。

 悲恋によって本田は親友の清顕を喪い、その生まれ変わりの勲はテロの末に自害。そして勲は熱帯の王女、ジン・ジャンに転生していた。幼い頃は勲の記憶を持っていたようだが、終戦後に成長して日本に留学した彼女は前世をすっかり忘れていた。本田は彼女を可愛がるようになり、生まれ変わりの真偽を確かめるために画策する。

 この小説を貫く一つのモチーフが視線である。西洋芸術において男は見るものであり、女は見られるものである。これは今期の授業で知った。芸術論の教授に感謝。
 そう考えれば見るもの、に自身をおこうとする本田は男性性への固執を読み取ることができるだろう。そしてジン・ジャン=清顕は一貫して見られるもの、女性におかれる。

 黒子の有無が本田にとって大きな問題になるのも、ここに関連してくる。本田は法意識、すなわち一般常識、規範…男は女とまぐわうべき、という思想のもと組まれた法律と理性のもとで生きてきた男であり、当時の同性愛を取り巻く状況からみても、とても自身が同性愛者=非男性だと認めることはできない。
 それを可能にする装置として転生はあるのではないか。男を愛することを厳重に隠蔽する強制異性愛装置としての転生譚。

 ここでゲイである(といわれる)三島由紀夫と作品を結びつけるような、ある意味で安易な流れにならないよう、ゲイ的想像力としての根拠を述べるならば、青春時代を共に過ごした男を巡って親友の男が人生を動かされる、という四部作を貫く感情のエネルギーがすでにゲイ的だ。
 愛についての厳密な定義を僕は知らないが、肉欲を伴った愛情としてはある存在への強い思い入れがあること、が挙げられるだろう。「春の雪」で清顕を看取り、「奔馬」で勲のために職業を変え、「暁の寺」でジン・ジャンに肉欲を向ける。しかもジン・ジャンには清顕、勲の影が絶えずちらつく。清顕を源流に持たない、純粋なジン・ジャンに果たして本田は熱烈な関心を持つだろうか。

 ゲイ的想像力の根拠を「暁の寺」内部からも挙げるならば、今西の「性の千年王国」と炎である。この国では美しい男女は性奴隷として飼われ、しかも書物は禁止されているため、知(観念)がないことで肉体(実体)は激しく強調されている。終盤でこの国は今西の観念の中で崩壊する。観念、すなわち知、本田の規範である異性愛の勝利である。清顕の実体は女性であるジン・ジャンであり、女性を本田は愛することになる。異性愛万歳。ジン・ジャンを愛したとき異性愛の世界は完成する。世界解釈はなされる。

 だが彼女の体に転生の証である黒子を見つけた直後に火事が起きた。他ならぬ今西の寝煙草による火事の炎は、タイで見た葬儀の炎と重なり、実体を失わせ、観念の存在とする浄化の炎が洋館を燃やした。実体と観念の力関係が逆転する。異性愛願望は燃え尽くされ、富士山は冬の観念の姿を失わず、また本田は観念=非実体の清顕を愛することから逃れられないのである。