読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小森陽一『大人のための国語教科書 あの名作の"アブない"読み方!』

 森鴎外舞姫』、夏目漱石『こころ』、芥川龍之介羅生門』、宮沢賢治「永訣の朝」、中島敦山月記』の定番教材とされる五作がここで取り上げられ、学校で行われる国語・文学教育の批判。
 僕が学校で触れた教材は『羅生門』と『山月記』、それから『こころ』だ。「永訣の朝」の項目は全文掲載だったから読むことができたが、『舞姫』は触らなかった。いつか読んで、それからその項目に戻ろう。

 読めたところはほとんど全部が面白かった。「国語教科書の闇」で高校の文学教材、小説教材は近代的自我を中心に組まれているという。なるほど下人はお上に使われていて法に縛られていた身から、自分の意思をもって悪となるし男となるし、李徴もまた自分のエゴに苦しめられ、尊大な羞恥心と臆病な自尊心によって虎になってしまう。三角関係の果てのKの自殺という過去を持った先生は明治の精神に殉死を遂げる。

 この三つは近代的自我というタームが大きく関わっている。そしてそれは、高校国語の総決算的定番教材、高校によっては擬古文や内容のために触れられないこともある『舞姫』へと繋がっていく。近代的自我の芽生えと挫折という主題である。
高校国語は教科書の手引きにおいてあらかじめ設定された主題を読み取ることに偏っていると本書では指摘している。そしてその扱い方に、ある問いが投げかけられている。

 その読みは誰のものなのか。

 文学には正解はなくて、自由に読んでいいとよく聞く。少なくとも僕の回りでは。教職課程の友人でさえそう考えていた。
 だが僕はそうではないと強く思う。正解はないかもしれない、でも正当性は問われ続けるし、読みの評価もされる。どうしてそう読んだのか? どう考えたらそう読めるのか? というふうに。

 自由というのは感性のままに、倫理観のままに、読んでいいということではない。先にあげた言説を僕なりに言い換えると、自分で論理立てて考えることに正解がない、となる。
 その論理や問題意識は紛れもなく読者である自分だけのものであり、ここが多分勘違いするポイントなのだろう。

 文学を通した正解探しではなく、文学を読むことそれ自体に食い込んだ一冊。
 『こころ』の同性愛問題、『羅生門』の天皇制への反旗、「永訣の朝」では妹の存在、『山月記』の袁傪の人間性と、学校教育では扱われなかった同じ作品の読みが展開される。天皇問題や賢治神話、李徴と袁傪の関係。

 ゼミの先生(もう他大学にいらっしゃるけれど)も口を酸っぱくして、「文学は道徳から離れることが大事」とおっしゃっていた。
 教育では道徳や倫理からは外れてしまうと失格である。文学と教育をいかにしてスムーズに接続していくのか、という一連の問題が本書の根底にある。