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加藤周一著作集『日本文学史序説』

 講義だの教職だのサークルだので、学校が始まってからなにかと忙しい。授業の課題で小説は読んでいるものの、自分の読書がほとんどできなくなっている。せっかく図書館から借りた『ゼロ年代の想像力』『金比羅』も積ん読状態だ。

 で、通学だとかの隙間を縫って読んでるのが同じく図書館から借りた『日本文学史序説』。院を考える上で、日本文学史を概観するために読んでいるのだが、ものっそい難しい。難しい、というか、たぶん学術書の文法や、物語を読むのではない読書の回路の使い方に慣れていないだけなんだろう。慣れである。

 たった今読み終わったのが、上巻の三章まで。一冊丸々やると手に終えなくなりそうなので、「第一章『万葉集』とその時代」だけ先に書くことにする。近代文学まで奈良時代からは遠すぎ…。

 まず、本書の目的は時代を一貫している日本文学の構造を明らかにすることだ。そのために、小説や歌などの文学作品だけでなく、文化・思想・宗教・政治を射程に入れて各時代を概観する。の理解でいいはず。

 日本文学の歴史は文献でたどれる限りは七・八世紀に始まるとしている。
 奈良時代平城京は唐から輸入された律令制度によって成立した都市であり、貴族支配層・耕地を得た公民・最下級の奴隷である奴婢といった階級がある。外来の法による都市の思想もまた唐からのものである。その影響は聖徳太子の『十七条の憲法』に顕著であり、儒・仏の思想と天皇制のための和の強調がここにみられる。これは漢文によって記述されている。
 平城京成立直後に編まれた記紀神話もまた文学史上に限らず大きな力を持つ。これも漢文体での記述である。これについては後に詳しく触れる。
 また、この都市で外せないものが東大寺の大仏に代表される仏教美術である。権力層では仏教が力を持っている。
 だが『万葉集』に仏教が関わる描写はほとんどない。抒情詩には仏教思想が取り扱われていないのた。

 外国語による抽象的思考は仏教化し、日本語による感情生活は仏教とは関わらないという点を筆者は指摘している。

 同じく聖徳太子の『三経義疏』は前者の代表とされ、感情表現の代表に和文の『万葉集』が挙げられる。外国語と思想で土着世界を構成した記紀神話はその中間におかれる。
 記紀神話について触れると、イザナミイザナギの国生みから天皇の血筋に接続されるこの二つの神話は天上と地上に断絶がなく、現実を越える世界を認めていない。「此岸的」であると筆者は言う。
 日本的な特徴はすでにあらわれており、全体から離れ、部分を語る傾向にあるという。全体の秩序へ向かう中国の思想とは違って、脱線は日本土着の考え方である。

 内容としては、特に恋に関わるエピソードが美しく、死において完成する恋というモチーフの日本における源流がここに提示されている。此岸の世界で感情生活の極致はもっとも移ろいやすい人間感情(恋)の永遠化であるという。
 地方文化の影響も受け、古代歌謡も載っており、短歌形式が重んじられていることも筆者は指摘している。
 記紀神話のあとに現れる『万葉集』へは、歌の形式の固定、抒情詩を私的な感情表現にすること、自然の発見、という要素を提示される。

 『万葉集』は八世紀に成立した日本語最大・最古の和訓漢字、万葉仮名の混用で編まれた歌集である。雑歌・相聞・挽歌の三つから構成され、特に後者二つが本書で取り上げられている。
 人の感情、ことに恋を扱う相聞、死者に寄せる挽歌にある恋と悲哀が自然に意味を与えた。小さな、優しい、身の回りにある自然を歌うのである。

 政治は唐詩にあらわれ、歌に政治はあらわれない。当時の人間の全人格に政治が触れ、歌となることはなかったのだ。

 儒仏・神仙思想は日本の此岸世界をこの時代で変えることはできなかった。
 次の時代に行われるのは、外来文化の「日本化」、土着世界の「分化」、表現の「洗練」である。

 次回、(あれば)「第三章『源氏物語』と『今昔物語』の時代」!