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加藤典洋『僕が批評家になったわけ』

 批評とは何か。それに明確な答えを返せる人はすごいと思う。
 ネットで辞書を引けば、「よい点・悪い点などを指摘して、価値を決めること。」とある。単純明快だ。疑問の余地はない。
 では評論との違いは何か、批評と感想はどう違うのか。作品に宿る批評性とは何か。

 著者は、批評とは、「知り方のレールから脱線すること」と書く。レールのない不安定ないつ倒れてしまうか、どこに向かうかもあやふやな思考である。
 これを「ことばで出来た思考の身体」としている。
 辞書のように一発で片付けないで、明解な回答を用意されない。批評とは自分で感じ、考え、自分の言葉で語るものだからだ。

 批評に関わる様々な物事が、学問的体系的というよりは「批評、ことば、批評にまつわる色々なことを、心に浮かぶまま」書かれている。

 そして、著者は批評とは? という問いに対して「批評とは本を一冊も読んでいなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができるゲーム」であり、これまでの勉強や読書を小説や絵画は無化させ、善悪、価値とも無関係だという答えを考え出す。

 デリダソシュールフーコーを理解した人に自分は叶わないんじゃないか? 僕はこのブログとかツイッターで感想を書き散らしているけど、もっと物知りで頭のいい人からするとちゃんちゃらおかしいかもしれない。『春琴抄』がセカイ系って! 純文クラスタにも、サブカルクラスタにも多分噴飯ものだろう。
 僕は何かを語ろうとしたときに、スタートラインにさえ立っていないんじゃないか?
 そう考えていた。だから語るための言葉や知識を手に入れようとよく分からないまま、『戦闘美少女の精神分析』『動物化するポストモダン』を読んだりしていた。『僕が批評家になったわけ』もその延長。
 だからこそ、帯にも抜粋されていた「本を一冊も読んでいなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができるゲーム」に強く共感した。

 『僕が批評家になったわけ』の内容について。

 第Ⅱ章、5節、字幕・シナリオが身近に感じられて分かりやすかったように思う。沖縄出身という高嶺剛がメガホンをとった『パラダイス・ビュー』や、リドリー・スコットが監督を勤めた『ブラック・レイン』での松田優作の演技を例に作品に宿る批評性を語る。

 前者は沖縄の舞台で、琉球語を字幕で提示し直すことで外国語として扱い、描かれる沖縄も実際の沖縄ではなくトロピカルな沖縄である。
 本土でのイメージを過剰になぞることで、本土から見た沖縄観を、突き返している。
 後者の映画においても、アメリカから見た日本のヤクザを過剰になぞり、アメリカの観客に送り返している。

 萩尾望都原作の演劇『半神』では「批評性」としてカメラが扱われる。内容は省くけれど。最初はああ哲学なのね、と思って流していた。これを踏まえるとその意味が少しつかめたように感じる。
 作品は内容を提示する。そこに批評性が生まれるには描くものや送る相手への冷たい視点が必要なのだ。
 情熱は必要だ。しかし暖かさや優しさでは良作は生まれないのだ。