筒井康隆『家族八景』

小学生の頃、テレビドラマで『七瀬ふたたび』を見ていた。テレパスの七瀬の他にも念力やタイムリープといった超能力オールスターズの話で、毎週わくわくしながら見ていた。

このドラマの原作の同名小説には前作がある。言ってみれば僕は第二期から七瀬のストーリーを見てたわけだ。
家族八景』。
テレパスを知られないように、各地を転々としても不審に思われない住み込みの家事手伝いをして暮らしている少女、七瀬は巡る家庭の水面下を暴いていく。

例えばそれは父親の不倫相手と関係を持つ息子であったり、二つの夫婦が互い違いに抱く不倫の欲望であったりする。どんな人物もドラマがある、的なことを三島由紀夫が確か言っていたけれど(うろ覚え。新海誠平野啓一郎もいってた気がする)、その言葉を借りるならどんな家にだって歪みはあるのだ。そして、それを暴かれるのを楽しんでいる読者は覗き見の欲望を叶えられることで、その欲望があることを小説に突きつけられている。

家庭の水面下に迫る触手が七瀬のテレパス能力だ。これによる他人のダイレクトな心象描写が解説で取り扱われている。小市民的な感覚が、より鮮やかに感情を描いている。
この語りの問題の他に、父親の問題がある。
家族八景』には、頼りがいのある、毅然とした、父性的な父親が全くといっていいほど出てこない。大抵は不倫をしているし、権力もない。自立だってできてやしない。そして母親が強い。支配的で過干渉な母親だ。
分かったふうに小難しそうな言葉を使うのは避けたいが、勉強も兼ねてそれっぽくまとめると、ワイズマンの不在とグレートマザーの肥大、が作品の下におかれている、というふうになる。

「無風地帯」~「芝生は緑」まで、そういった構図が少しずつ変化させながら反復される。そして「日曜画家」で日常はからっきしなものの芸術に才能を持つ天洲に初めて好意を抱くが、それも裏切られて終わる。
父性の不在を繰り返し提示し、迎えた最終話「亡母渇仰」でそれがピークに達する。二十七才の信太郎は母親の恒子にべったりで、葬儀でも醜態を演じる。妻の幸江は離婚を考え、上司のコネも失い、幼い精神の彼は厳しい現実に放り出されるだろうことが示される。それは自立への道でもあり、不在が強調され続けた父性の芽生えが仄めかされて物語が終わる。

ではなぜ昭和四十七年に父性が描かれたのか?
都市化が進む社会の中でこれまでにないほど変化していく家族の形や生活スタイルの象徴としての父親の凋落。というような分かりやすいものに落とし込んでいいのか?
また、重要な要素として扱われているであろう仏教思想との関連は?
『七瀬ふたたび』も関わるが、原作小説とそのドラマ化作品の違いは?

時をかける少女』しか読んだことがなかったが、筒井康隆の難解、ブラックといった味は初めてだった。そして多分こっちが筒井の本領なのだろう。