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坂上秋成『夜を聴く者』

久しぶりに、THE・純文学を離れてエンタメ小説を読んだ。キャラクター小説、ライト文芸のジャンルになるのかな。
二作品収録されていて、長編の表題作と、短編の『パーフェクト・スタイル』。
表題のあらすじを表面だけなぞると、鍼灸師のミハイは青春時代からの親友であるトウヤへの奇妙な感情をもて余していた。三十路の今では二人の関係は高校の頃のようにはいかず、その気まずさもあってミハイはトウヤの抱える問題に気づかない。その問題はやがて決定的になって…。という感じ。
ミハイの持つトウヤへの微妙な思いが、東洋医療と絡めて描かれている。病巣を切り取って完治させるというある種、白か黒、ゼロか一の考えの西洋医療とは異なり、明確な決定を下さずに抵抗力を高め、気の流れや心理的なものを重視する東洋医療というものは、同性愛的感情なのかどうか、最後までグレーなままのトウヤへの感情に重なる。

ある問題や言葉にできない物事を正面から見つめ、それを分析し、対処していく。そういうやり方には苦痛が伴う。切除の痛みだ。
だが、それをあえて言葉にしないまま、明確にしないまま抱える方法もまたあるだろう。そしてそれはまた別の苦痛がある。
この場合のミハイの感情に決着をつけることは、前者の方法ではできないだろう。この感情に当てはまる言葉がないからだ。同性愛でもなく、しかし友愛でもない感情には名前はない。
明確な言葉にできない関係性と感情を落ち着くまで抱えていく、ということしかできないのだ。
そしてそれは西洋医療の手術に代表される即効性のある治療ではなく、東洋医療の時間経過を視野にいれたゆっくりとした癒しの感覚が副旋律として無理なくミハイの感情に寄り添っている。

この作品が限りなくBL的でありながら、BLではない、というバランス感覚は脱帽だ。BLにしないことが『夜を聴く者』の要だからだ。あくまでも友情であること、しかしそこから逸脱しており、かといって同性愛の枠にもはめられない、強すぎる友愛。強い愛をBLは描くだろう。しかしその未来に女はいない。仮定であれ、未来に女がいて、トウヤとミハイは恋愛をせずに時を過ごし、それぞれに妻ができる。その未来像が、この小説とBLの間に薄い膜を張っている。

次に『パーフェクトスタイル』。
綾鳥さんと語り部の僕を中心にした高校生の青春短編。
このテイスト、僕はとても好きだ。コミュニケーションのままならなさ、内に抱え込んだよどみ、衝動的な暴力。そういったものが丁寧に描かれている。
そして、それらを許すこと、許されないこと、という問題が暖かくも冷たくこの作品を引き締めている。
この短編も『夜を聴く者』にもあったモチーフを含んでいて、綾鳥さんの僕に対しての思いをぶつける言葉には女子高生というキャラクターがほとんど様式美的に持つもののポジティブな否定を提示している。それが綾鳥さんの素直な言葉に乗ってくる瞬間は素晴らしかった。


二作とも、たぶん今までは恋愛というコードを通してしか物語が描いてこなかったものを、別の切り口で見せてくれる作品だった。
言葉にないものは存在しない、というのはよく聞く。例えば、「アメリカには肩凝りをする人はいない、英語には肩凝りを示す言葉がないからだ」というふうに。
でも本当はそんなことはないだろう。性を絡んだ、女性への欲求を上回るほどの友愛や、男女間における確かな友情はあるはずなのだ。