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谷崎潤一郎『春琴抄』

 変態文学(誉め言葉)好きなら避けては通れぬマゾヒスト、日本文学の輝く変態、谷崎潤一郎の名作。

 純日本的な文体を目指した、と言われる文体は饒舌というよりも、抑制の利いていて、読点が必要最低限以上に削られた長文の語りが特徴、というか、壁だ。慣れるまではかなり読みにくい。
 僕は今大学二年生だけれど、高校三年の頃に挫折していた。今回は頑張って読むうちに次第にするする読めるようになって気にならなくなった。

 語り部が『鵙屋春琴伝』から春琴や佐助を知り、彼らの話をてる女たちから聞き、それを記したのがこの『春琴抄』である、という複雑なスタイルの小説で、しかもそこには嘘やごまかしが挿入されている。

 三味線の名手である春琴だが、本来の得意は踊りだという。
 春琴の浴びた熱湯の怪我が実際にはどうだったのか明言されない。

 そういった不透明な語りで、佐助と春琴が関係を深める過程が語られる。
 この二人も相当なねじれた関わり方をしていて、虫歯を足で冷やす佐助や、折檻される佐助のシーンにこっちはドキドキしっぱなしだった。しかも佐助自身は喜んでいるだろうし、虫歯に至っては分かってやっていそうだ。

 春琴=主・攻、佐助=従・受の関係が表面を覆っているが、春琴をこのように育てたのはほとんど佐助願望であり、主従は逆転している。調教するように春琴を調教したのである。確か谷崎特集のテレビ番組で同じことをすごい人が言っていた。大きくうなずくしかない。
 暴力系ツンデレの元祖、という評価もたまに聞かれる。分からないでもない。折檻する、わがままを言う、暴言を吐く。しかし、自分の世話を認めるのも佐助だ。ここに好意を読むなと言う方が無理だと、現代サブカルにどっぷり漬かった僕は思う。

 その方向で一歩踏み出すなら、セカイ系の要素もまたあるだろう。
 春琴と佐助は互いに盲目となって二人だけのある種完結したセカイを作り上げるが、そのセカイを乱す事件が全くといっていいほど描かれていないのである。

 主人公と世界全体が政治・社会を通さずにシンクロする、というのがセカイ系であるという。そうであるなら、佐助と春琴の生活描写に終始し、春琴の死後には外界は排除されたかのように観念の春琴を佐助は思うというこの作品はセカイ系とも読めるかもしれない。