G・ガルシア・マルケス『百年の孤独』

G・ガルシア・マルケス百年の孤独』を読んだ。大作。

南米の架空の村マコンドの盛衰がマジックリアリズムの手法で描かれている作品。この方法の代表作であり、かくいう自分もマジックリアリズムってどんなんかなーと調べていた過程で知った。

似た手法(ジャンル?)のファンタジーなら、たぶんある境界を越えることで現実にはない世界に行くんだと思う。『ハリー・ポッター』シリーズのキングズ・クロス駅の九と四分の三番線だとか、『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズの未来人、宇宙人、超能力者だとか。不思議なことのない現実世界と、不思議なことばかりの非現実世界の境目が明確になっている。

対して、マジックリアリズムでは非現実はあくまでリアリズム、現実のものとして扱われている。ジプシーたちが村に持ってくるのは空を飛ぶ絨毯だし、長雨で水を含みすぎた空気中を魚は泳いでいく。現実的な場面と幻想的な場面が地続きになって、マコンドの生活が描かれる。現実の誇張による幻想化、というらしい。

マコンドはホセ・アルカディオ・ブエンディアから始まり、最後には豚の尻尾をもつアウレリャノが生まれる。
この血筋に連なる人物たちはほぼ全てが愛を成立させられない内に死ぬ。ホセ・アルカディオの次男であるアウレリャノ大佐は自分の地位によって各地に十七人の息子(アウレリャノ)をもうけ、マコンド成立時からいる女のピラル・テルネラとの間にアウレリャノ・ホセを産ませる。彼女は長男のホセ・アルカディオとの間にも子供をつくる。後に四世代目をつくるアルカディオだ。

マコンド二世代目の兄弟であるホセ・アルカディオ、アウレリャノ大佐はいずれも正妻との間に子をつくれずに終わる。
愛した相手とは結ばれず、愛せない相手とばかり結ばれ血筋を続かせる。それが社会情勢に流されながら繰り返されるのだ。
ホセ・アルカディオの又従兄弟であり妻のウルスラは、愛情の不通や社会情勢の繰り返しに「時間はぐるぐるめぐっている」と感じる。

アルカディオの曾孫のアウレリャノ・バビロニアとその叔母であるアマランタ・ウルスラの息子が豚の尻尾のアウレリャノであり、近親姦から始まった血統は近親姦を最後に村と一緒に滅ぶ。恐らくもっとも長く生き、大きな影響力を持ったウルスラはこの作品のたくさんある芯のうち一つを無意識につかんでいたのだろう。

この罪の家系の滅びには、全てが風に吹き飛ばされて昇天するショッキングなこのラストがふさわしいと感じる。ノアの箱船や終末と重ねられるらしいが、むしろ小町娘のレメディオスがシーツと一緒に風に乗って消えるシーンを思い出した。うら寂しさよりはどこか爽やかな終わり。

近親相姦、忘却、クーデター、恋愛など膨大なモチーフが永劫回帰し、それが宿命に回収されていく、といった絵が最後に明かされる展開にぞくぞくした。正直、明確なストーリーをつかみきれず、人物も多く、だれていた中で、嵐によって一瞬で全てが無になる流れにはガツンときた。

ただ、自分の未熟さかもしれないが、それぞれの個人にクローズアップされない分、この人はどういう気持ちでいるのかがまったくつかめない部分があってつまずきそうにはなった。アウレリャノ・バビロニアをなぜアマランタ・ウルスラは受け入れたのだろう。一言で終わらせるにはあまりにも強すぎないか、宿命。
個人の感情は宿命には抗えずに流されてしまうということ? これは実感するのは難しい…。

ドラマチックな物語というよりは、マコンドの生活の中に自分が入っていって、熱帯の強すぎる日差しとか乾いた土とかを楽しんじゃうくらいの方がいいかもしれない。
はぁるばる来たぜマコンド~♪
そんなノリで。