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伊藤計劃『ハーモニー』

伊藤計劃『ハーモニー』

 夭折した伊藤の第二長編。
 大災禍、ザ・メイルストロムと呼ばれる核戦争後の世界を席巻する生命主義と呼ばれる超高度医療文明に不和を感じる霧慧トァンは、同じくどうしようもない程に生命主義を嫌悪する少女、御冷ミァハに見出だされ、零下堂キアンと共に拒食による自殺を決行する。そしてミァハだけが死亡する。
 十三年が経って、生命主義とそれに対する嫌悪の均衡点を見つけたトァンは、螺旋監察官として戦場に赴き、密輸によって禁止されている煙草や酒をたしなむ。キアンは生命主義の思想に適応した生活を街で送っている。トァンの帰国後、彼女の目の前でキアンは「うん、ごめんね、ミァハ」と言って自害する。六五八二人の人間が同時に自殺を決行していた。

 『ハーモニー』はこのような冒頭で始まる。前作『虐殺器官』では言語がキーになっていたが、本作では意識がメインテーマに据えられている。礼儀や思いやり、優しさが圧力となって人々を支配し、体内の医療用ナノマシンが個人情報をサーバーに送り続けて健康管理を行うユートピアの源流には人間への不信がある。再帰的な疑心とでも書けばいいのか。
 大災禍は恐らく9.11とみられるテロによって始まり、核戦争に発展し、大きな爪痕を残して終結した。ここから生命を社会のリソースとして扱い、優しさの蔓延する生命主義が生まれた。体内のナノマシンによって病気も痛みも身体から駆逐され、老いだけは辛うじて身体に残っているものの生命主義は身体から不健康を駆逐していった。

 また、人間から逐われたシステムは不健康だけではない。
 体内のナノマシンは絶えず宿主の情報を生府に送り続け、個人情報保護の概念が消える。町中を歩けば、どんな仕事をしていて、それはどういう社会的評価を受けているか、どういう生活をしているのかが角膜のデバイスに表示される。ナノマシンが生命主義の柱なのだ。食事や生活スタイルも、最善とされる選択がナノマシンを介して提示される。肥満や痩身といった標準体型から外れることは社会的信用を損なうため、人々は同じ身体、個人差を認めない数値上の健康体をしている。トァンは帰国直後に列車内の誰も彼もがほとんど区別できないということに気付き、愕然とするシーンがある。
 生命主義は大災禍によってむき出しになった自分と異なる他者も駆逐したのだ。全員が同じ思考と生活スタイルならば衝突は起こらず、完全な調和、ハーモニーが奏でられる。というわけだ。

 ハーモニーの和やかな強要によって優しく窒息させられそうなトァンの心理を描くにあたって、また語りのトリックによって、独特の文体が採用されている。ハイパーテキスト文体と表現すべきか。ウィキ程度の情報で読んでくださっている方には申し訳ないけれど、「ハイパーテキスト (hypertext) とは、複数の文書(テキスト)を相互に関連付け、結び付ける仕組みである。「テキストを超える」という意味から"hyper-"(~を超えた) "text"(文書)と名付けられた。」ということらしい。
 その部分を以下に抜き出してみる。
 ミァハたち三人は栄養を摂取しなくなる錠剤を服用し、自殺を試みたが、トァンとキアンだけが生き残る。投薬とカウンセリングを経て快復したトァンの絶望のシーンだ。

「派手な色彩の建築はまかりならん、と誰が法律で定めたわけでもないというのに、そこに広がっているのはひたすらに薄味で、何の個性もなく、それ故に心乱すこともない街だった。どこまでも、ひたすらに、川の両岸を果てしなく。

これは、どうにもならない。

わたしはそこで、ようやくあきらめを学ぶ。」

 一人称は語り手の心情がダイレクトに伝わってくる、という特長がもっとも分かりやすいものの一つだろう。だがこの作品では、トァンの心情は<>でくくられた別の文書として切り分けられ、その文書を引き出しているという形で表現される。
 と様々な感情がラベルつきで語られる。

 八年前のネタバレを気にしたって仕方ないから書いてしまうと、自殺大量自殺と、「隣人を殺さねば汝は死ぬ」の混乱状態を作り出したのは、実は生きていたミァハだった。彼女は全人類の完全なハーモニーのために一連の事件を起こしたのだ。
 そして彼女の目的は達成され、全人類の意識は消失する。そして完全なユートピアで暮らす誰かが、意識の最後の所持者であるトァンの記録されたテクストを読んでいる、ということが明かされて終わる。
 ハイパーテキストによって隔離された感情は、もう感情のない読み手の追体験のためだった。

 この作品は完全なハーモニーが実現されて終わる。社会と個人という手垢のついた対立を見るのならば、個人の消失によって社会に生きる苦しみは消えたのである。トァンは生命主義に押し潰されることもなく、同じように生命主義に馴染めず自殺をする若者もいなくなった。ユートピアは完成した。

 言語とその契約によって人を殺している、というのが『虐殺器官』ならば、意識と欲望の中で生きる人間の完全な幸福は精神の自殺しかない、というのが『ハーモニー』だろう。どちらもが社会や大衆が大きな力を持ち、その中で生きることにシェパードやトァンは不和を抱えている。
 トァンは終盤で魂について言及する。個人の生命を左右する「言語」から始まり、それを操る「意識」を経由して「魂」にたどり着くのだ。遺作、『屍者の帝国』がこの問題に詳しいだろう。

加藤周一著作集『日本文学史序説』

 講義だの教職だのサークルだので、学校が始まってからなにかと忙しい。授業の課題で小説は読んでいるものの、自分の読書がほとんどできなくなっている。せっかく図書館から借りた『ゼロ年代の想像力』『金比羅』も積ん読状態だ。

 で、通学だとかの隙間を縫って読んでるのが同じく図書館から借りた『日本文学史序説』。院を考える上で、日本文学史を概観するために読んでいるのだが、ものっそい難しい。難しい、というか、たぶん学術書の文法や、物語を読むのではない読書の回路の使い方に慣れていないだけなんだろう。慣れである。

 たった今読み終わったのが、上巻の三章まで。一冊丸々やると手に終えなくなりそうなので、「第一章『万葉集』とその時代」だけ先に書くことにする。近代文学まで奈良時代からは遠すぎ…。

 まず、本書の目的は時代を一貫している日本文学の構造を明らかにすることだ。そのために、小説や歌などの文学作品だけでなく、文化・思想・宗教・政治を射程に入れて各時代を概観する。の理解でいいはず。

 日本文学の歴史は文献でたどれる限りは七・八世紀に始まるとしている。
 奈良時代平城京は唐から輸入された律令制度によって成立した都市であり、貴族支配層・耕地を得た公民・最下級の奴隷である奴婢といった階級がある。外来の法による都市の思想もまた唐からのものである。その影響は聖徳太子の『十七条の憲法』に顕著であり、儒・仏の思想と天皇制のための和の強調がここにみられる。これは漢文によって記述されている。
 平城京成立直後に編まれた記紀神話もまた文学史上に限らず大きな力を持つ。これも漢文体での記述である。これについては後に詳しく触れる。
 また、この都市で外せないものが東大寺の大仏に代表される仏教美術である。権力層では仏教が力を持っている。
 だが『万葉集』に仏教が関わる描写はほとんどない。抒情詩には仏教思想が取り扱われていないのた。

 外国語による抽象的思考は仏教化し、日本語による感情生活は仏教とは関わらないという点を筆者は指摘している。

 同じく聖徳太子の『三経義疏』は前者の代表とされ、感情表現の代表に和文の『万葉集』が挙げられる。外国語と思想で土着世界を構成した記紀神話はその中間におかれる。
 記紀神話について触れると、イザナミイザナギの国生みから天皇の血筋に接続されるこの二つの神話は天上と地上に断絶がなく、現実を越える世界を認めていない。「此岸的」であると筆者は言う。
 日本的な特徴はすでにあらわれており、全体から離れ、部分を語る傾向にあるという。全体の秩序へ向かう中国の思想とは違って、脱線は日本土着の考え方である。

 内容としては、特に恋に関わるエピソードが美しく、死において完成する恋というモチーフの日本における源流がここに提示されている。此岸の世界で感情生活の極致はもっとも移ろいやすい人間感情(恋)の永遠化であるという。
 地方文化の影響も受け、古代歌謡も載っており、短歌形式が重んじられていることも筆者は指摘している。
 記紀神話のあとに現れる『万葉集』へは、歌の形式の固定、抒情詩を私的な感情表現にすること、自然の発見、という要素を提示される。

 『万葉集』は八世紀に成立した日本語最大・最古の和訓漢字、万葉仮名の混用で編まれた歌集である。雑歌・相聞・挽歌の三つから構成され、特に後者二つが本書で取り上げられている。
 人の感情、ことに恋を扱う相聞、死者に寄せる挽歌にある恋と悲哀が自然に意味を与えた。小さな、優しい、身の回りにある自然を歌うのである。

 政治は唐詩にあらわれ、歌に政治はあらわれない。当時の人間の全人格に政治が触れ、歌となることはなかったのだ。

 儒仏・神仙思想は日本の此岸世界をこの時代で変えることはできなかった。
 次の時代に行われるのは、外来文化の「日本化」、土着世界の「分化」、表現の「洗練」である。

 次回、(あれば)「第三章『源氏物語』と『今昔物語』の時代」!

加藤典洋『僕が批評家になったわけ』

 批評とは何か。それに明確な答えを返せる人はすごいと思う。
 ネットで辞書を引けば、「よい点・悪い点などを指摘して、価値を決めること。」とある。単純明快だ。疑問の余地はない。
 では評論との違いは何か、批評と感想はどう違うのか。作品に宿る批評性とは何か。

 著者は、批評とは、「知り方のレールから脱線すること」と書く。レールのない不安定ないつ倒れてしまうか、どこに向かうかもあやふやな思考である。
 これを「ことばで出来た思考の身体」としている。
 辞書のように一発で片付けないで、明解な回答を用意されない。批評とは自分で感じ、考え、自分の言葉で語るものだからだ。

 批評に関わる様々な物事が、学問的体系的というよりは「批評、ことば、批評にまつわる色々なことを、心に浮かぶまま」書かれている。

 そして、著者は批評とは? という問いに対して「批評とは本を一冊も読んでいなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができるゲーム」であり、これまでの勉強や読書を小説や絵画は無化させ、善悪、価値とも無関係だという答えを考え出す。

 デリダソシュールフーコーを理解した人に自分は叶わないんじゃないか? 僕はこのブログとかツイッターで感想を書き散らしているけど、もっと物知りで頭のいい人からするとちゃんちゃらおかしいかもしれない。『春琴抄』がセカイ系って! 純文クラスタにも、サブカルクラスタにも多分噴飯ものだろう。
 僕は何かを語ろうとしたときに、スタートラインにさえ立っていないんじゃないか?
 そう考えていた。だから語るための言葉や知識を手に入れようとよく分からないまま、『戦闘美少女の精神分析』『動物化するポストモダン』を読んだりしていた。『僕が批評家になったわけ』もその延長。
 だからこそ、帯にも抜粋されていた「本を一冊も読んでいなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができるゲーム」に強く共感した。

 『僕が批評家になったわけ』の内容について。

 第Ⅱ章、5節、字幕・シナリオが身近に感じられて分かりやすかったように思う。沖縄出身という高嶺剛がメガホンをとった『パラダイス・ビュー』や、リドリー・スコットが監督を勤めた『ブラック・レイン』での松田優作の演技を例に作品に宿る批評性を語る。

 前者は沖縄の舞台で、琉球語を字幕で提示し直すことで外国語として扱い、描かれる沖縄も実際の沖縄ではなくトロピカルな沖縄である。
 本土でのイメージを過剰になぞることで、本土から見た沖縄観を、突き返している。
 後者の映画においても、アメリカから見た日本のヤクザを過剰になぞり、アメリカの観客に送り返している。

 萩尾望都原作の演劇『半神』では「批評性」としてカメラが扱われる。内容は省くけれど。最初はああ哲学なのね、と思って流していた。これを踏まえるとその意味が少しつかめたように感じる。
 作品は内容を提示する。そこに批評性が生まれるには描くものや送る相手への冷たい視点が必要なのだ。
 情熱は必要だ。しかし暖かさや優しさでは良作は生まれないのだ。

筒井康隆『家族八景』

小学生の頃、テレビドラマで『七瀬ふたたび』を見ていた。テレパスの七瀬の他にも念力やタイムリープといった超能力オールスターズの話で、毎週わくわくしながら見ていた。

このドラマの原作の同名小説には前作がある。言ってみれば僕は第二期から七瀬のストーリーを見てたわけだ。
家族八景』。
テレパスを知られないように、各地を転々としても不審に思われない住み込みの家事手伝いをして暮らしている少女、七瀬は巡る家庭の水面下を暴いていく。

例えばそれは父親の不倫相手と関係を持つ息子であったり、二つの夫婦が互い違いに抱く不倫の欲望であったりする。どんな人物もドラマがある、的なことを三島由紀夫が確か言っていたけれど(うろ覚え。新海誠平野啓一郎もいってた気がする)、その言葉を借りるならどんな家にだって歪みはあるのだ。そして、それを暴かれるのを楽しんでいる読者は覗き見の欲望を叶えられることで、その欲望があることを小説に突きつけられている。

家庭の水面下に迫る触手が七瀬のテレパス能力だ。これによる他人のダイレクトな心象描写が解説で取り扱われている。小市民的な感覚が、より鮮やかに感情を描いている。
この語りの問題の他に、父親の問題がある。
家族八景』には、頼りがいのある、毅然とした、父性的な父親が全くといっていいほど出てこない。大抵は不倫をしているし、権力もない。自立だってできてやしない。そして母親が強い。支配的で過干渉な母親だ。
分かったふうに小難しそうな言葉を使うのは避けたいが、勉強も兼ねてそれっぽくまとめると、ワイズマンの不在とグレートマザーの肥大、が作品の下におかれている、というふうになる。

「無風地帯」~「芝生は緑」まで、そういった構図が少しずつ変化させながら反復される。そして「日曜画家」で日常はからっきしなものの芸術に才能を持つ天洲に初めて好意を抱くが、それも裏切られて終わる。
父性の不在を繰り返し提示し、迎えた最終話「亡母渇仰」でそれがピークに達する。二十七才の信太郎は母親の恒子にべったりで、葬儀でも醜態を演じる。妻の幸江は離婚を考え、上司のコネも失い、幼い精神の彼は厳しい現実に放り出されるだろうことが示される。それは自立への道でもあり、不在が強調され続けた父性の芽生えが仄めかされて物語が終わる。

ではなぜ昭和四十七年に父性が描かれたのか?
都市化が進む社会の中でこれまでにないほど変化していく家族の形や生活スタイルの象徴としての父親の凋落。というような分かりやすいものに落とし込んでいいのか?
また、重要な要素として扱われているであろう仏教思想との関連は?
『七瀬ふたたび』も関わるが、原作小説とそのドラマ化作品の違いは?

時をかける少女』しか読んだことがなかったが、筒井康隆の難解、ブラックといった味は初めてだった。そして多分こっちが筒井の本領なのだろう。

坂上秋成『夜を聴く者』

久しぶりに、THE・純文学を離れてエンタメ小説を読んだ。キャラクター小説、ライト文芸のジャンルになるのかな。
二作品収録されていて、長編の表題作と、短編の『パーフェクト・スタイル』。
表題のあらすじを表面だけなぞると、鍼灸師のミハイは青春時代からの親友であるトウヤへの奇妙な感情をもて余していた。三十路の今では二人の関係は高校の頃のようにはいかず、その気まずさもあってミハイはトウヤの抱える問題に気づかない。その問題はやがて決定的になって…。という感じ。
ミハイの持つトウヤへの微妙な思いが、東洋医療と絡めて描かれている。病巣を切り取って完治させるというある種、白か黒、ゼロか一の考えの西洋医療とは異なり、明確な決定を下さずに抵抗力を高め、気の流れや心理的なものを重視する東洋医療というものは、同性愛的感情なのかどうか、最後までグレーなままのトウヤへの感情に重なる。

ある問題や言葉にできない物事を正面から見つめ、それを分析し、対処していく。そういうやり方には苦痛が伴う。切除の痛みだ。
だが、それをあえて言葉にしないまま、明確にしないまま抱える方法もまたあるだろう。そしてそれはまた別の苦痛がある。
この場合のミハイの感情に決着をつけることは、前者の方法ではできないだろう。この感情に当てはまる言葉がないからだ。同性愛でもなく、しかし友愛でもない感情には名前はない。
明確な言葉にできない関係性と感情を落ち着くまで抱えていく、ということしかできないのだ。
そしてそれは西洋医療の手術に代表される即効性のある治療ではなく、東洋医療の時間経過を視野にいれたゆっくりとした癒しの感覚が副旋律として無理なくミハイの感情に寄り添っている。

この作品が限りなくBL的でありながら、BLではない、というバランス感覚は脱帽だ。BLにしないことが『夜を聴く者』の要だからだ。あくまでも友情であること、しかしそこから逸脱しており、かといって同性愛の枠にもはめられない、強すぎる友愛。強い愛をBLは描くだろう。しかしその未来に女はいない。仮定であれ、未来に女がいて、トウヤとミハイは恋愛をせずに時を過ごし、それぞれに妻ができる。その未来像が、この小説とBLの間に薄い膜を張っている。

次に『パーフェクトスタイル』。
綾鳥さんと語り部の僕を中心にした高校生の青春短編。
このテイスト、僕はとても好きだ。コミュニケーションのままならなさ、内に抱え込んだよどみ、衝動的な暴力。そういったものが丁寧に描かれている。
そして、それらを許すこと、許されないこと、という問題が暖かくも冷たくこの作品を引き締めている。
この短編も『夜を聴く者』にもあったモチーフを含んでいて、綾鳥さんの僕に対しての思いをぶつける言葉には女子高生というキャラクターがほとんど様式美的に持つもののポジティブな否定を提示している。それが綾鳥さんの素直な言葉に乗ってくる瞬間は素晴らしかった。


二作とも、たぶん今までは恋愛というコードを通してしか物語が描いてこなかったものを、別の切り口で見せてくれる作品だった。
言葉にないものは存在しない、というのはよく聞く。例えば、「アメリカには肩凝りをする人はいない、英語には肩凝りを示す言葉がないからだ」というふうに。
でも本当はそんなことはないだろう。性を絡んだ、女性への欲求を上回るほどの友愛や、男女間における確かな友情はあるはずなのだ。

谷崎潤一郎『春琴抄』

 変態文学(誉め言葉)好きなら避けては通れぬマゾヒスト、日本文学の輝く変態、谷崎潤一郎の名作。

 純日本的な文体を目指した、と言われる文体は饒舌というよりも、抑制の利いていて、読点が必要最低限以上に削られた長文の語りが特徴、というか、壁だ。慣れるまではかなり読みにくい。
 僕は今大学二年生だけれど、高校三年の頃に挫折していた。今回は頑張って読むうちに次第にするする読めるようになって気にならなくなった。

 語り部が『鵙屋春琴伝』から春琴や佐助を知り、彼らの話をてる女たちから聞き、それを記したのがこの『春琴抄』である、という複雑なスタイルの小説で、しかもそこには嘘やごまかしが挿入されている。

 三味線の名手である春琴だが、本来の得意は踊りだという。
 春琴の浴びた熱湯の怪我が実際にはどうだったのか明言されない。

 そういった不透明な語りで、佐助と春琴が関係を深める過程が語られる。
 この二人も相当なねじれた関わり方をしていて、虫歯を足で冷やす佐助や、折檻される佐助のシーンにこっちはドキドキしっぱなしだった。しかも佐助自身は喜んでいるだろうし、虫歯に至っては分かってやっていそうだ。

 春琴=主・攻、佐助=従・受の関係が表面を覆っているが、春琴をこのように育てたのはほとんど佐助願望であり、主従は逆転している。調教するように春琴を調教したのである。確か谷崎特集のテレビ番組で同じことをすごい人が言っていた。大きくうなずくしかない。
 暴力系ツンデレの元祖、という評価もたまに聞かれる。分からないでもない。折檻する、わがままを言う、暴言を吐く。しかし、自分の世話を認めるのも佐助だ。ここに好意を読むなと言う方が無理だと、現代サブカルにどっぷり漬かった僕は思う。

 その方向で一歩踏み出すなら、セカイ系の要素もまたあるだろう。
 春琴と佐助は互いに盲目となって二人だけのある種完結したセカイを作り上げるが、そのセカイを乱す事件が全くといっていいほど描かれていないのである。

 主人公と世界全体が政治・社会を通さずにシンクロする、というのがセカイ系であるという。そうであるなら、佐助と春琴の生活描写に終始し、春琴の死後には外界は排除されたかのように観念の春琴を佐助は思うというこの作品はセカイ系とも読めるかもしれない。

村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

 ゆっくりでもいいから、村上春樹全集を読破しようと思って半年。学校の図書館に借りられたままだった第四巻が帰ってきていたのですぐ借りて読んだ。一週間と少しかかった。

 実はこの作品、二年前にも読んだことがあったので通読は二度目だ。村上春樹作品は、『ノルウェイの森』や『アフターダーク』の系列の現実路線と、『1Q84』『海辺のカフカ』といったファンタジー路線の二つに大まかに分けられる。もちろん例外とか、中間点もあるんだろうけれど。『アフターダーク』は本当に現実路線なのか、とか。確かに「私たち」の人称やテレビの中のシーンは現実離れしている。でもとりあえず分けられるということにしておく。

 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は後者に属する。
 「組織(システム)」と「工場(ファクトリー)」の情報戦争に巻き込まれる「組織」の技術者である「私」の「ハードボイルド・ワンダーランド」と、金色の毛をした一角獣の住む壁に囲われた街で「夢読み」として暮らすことになる「僕」の視点で進む「世界の終わり」が交互に繰り返されるスタイルの小説だ。

 ただ普通に読めば、いつもの村上春樹ですね、といった感じ。はいはいオシャンティオシャンティ。パスタでも煮て食ってれば? 
 その最たるシーンの一つが、中盤にさしかかったあたりにある。「ハードボイルド・ワンダーランド」のパートで私の家に二人組の襲撃者がやってくる。そして彼らは私の大切な所有物から壊していく。ベッドから服から、冷蔵庫の中にいたるまで全部が駄目になる。それが私の一人称で淡々と叙述される。止めようと叫びはしても、強く止めに入るような、強硬な姿勢は描写されない。
 最終的には、襲撃者の一人とひっくり返ったソファを戻し、それに座ってビールを飲み始めてしまう。

 シュールだ。

 そのシュールさに惑わされてはいけない。私という人間はひどく心を閉ざしている。それは極めて希薄な表現でほのめかされるだけだが、昔の大きな感情をきちんと処理できていないことがうかがわれる。描写されないということは、その感情が大きすぎて語れない、という考えができるからだ。
 で、それを抱えた私は理不尽な襲撃者に対し、抗議はするものの、すぐにそれを投げ出してしまう。怒りや悲しみのようなものは別の情景に変換され、どことなく感情を抑圧しているような印象を受ける。

 心を閉ざすということを、この小説は私が家で仕事をする際の警戒や、壊されたアパートのドア、様々に形を変えて描かれる。それは第三回路である世界の終わりの原形になったのかもしれない。
 私がなぜ心を閉ざしているのか、ということは明らかにされない。自分の悲しみを誰かに伝えようとしても誰にも伝わるはずがなく、だから諦めてしまった、というようなことが独白されるだけだ。

 自分が自分のままで社会で生きることがどれ程困難かは簡単に想像できる。そしてそうしようとしてもほとんどの場合失敗するということも。じゃあどうするか、と考えたときこの作品は三つの方法を提示している。
 心を閉ざして誰にも理解されなくてもいいと開き直ること。心を誰かに預けて踏み台にすること。心を辛いところから逃がして辛くても自分でいようと決意すること。
 一番目は社会性や協調性がないとされ、二番目は弱者を踏みつけにしている。最も尊い選択肢かもしれない三番目は、実は誰も幸せにならない。辛さはなくならないし、社会からは排斥されるだろう。
 クライマックスで、世界の終わりの僕は、三番目を選ぶ決断をした。