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斎藤環『戦闘美少女の精神分析』

斎藤環戦闘美少女の精神分析』を読んだ。

風の谷のナウシカ』、『セーラームーン』、『新世紀エヴァンゲリオン』などジャンルを問わず現代日本アニメには戦う美少女が登場する。
それは『ルパン三世』の峰不二子や、アメリカの映像作品に描かれる成長した女性とは一線を画している。

ではその意味するものは何なのか?

著者はセクシュアリティ精神分析、おたく論を軸にしながら戦闘美少女「ペニスと同一化した少女ーーファリック・ガールズ」を分析する。
非現実の王国で』を著したダーガーを重ねながら、おたく達の掲げる実現不可能な、だからこそ求めてやまない夢が言語化されている。
そこに至るまでの思考はダイナミックで広範囲に及ぶ。

村上春樹ノルウェイの森』や中村明日美子『同級生』などでも取り入れられている物語を動かすためのトラウマにも言及されている。
綾波レイ」や「ナウシカ」にはトラウマがなく、だからこそ受容者を魅了する。戦う少女が否応なく持ってしまう空虚さ、内面の不足によって逆に彼女らはフィクションの中で特殊なリアリティを帯びる。そしてそれはセクシュアリティと近接する。

疑問点として、『新世紀エヴァンゲリオン』の「綾波レイ」がトラウマを持たない存在であることは納得できたが、「惣流・アスカ・ラングレー」の抱える過去はここで言うトラウマとは違うのだろうか。
外傷エピソードとして、母親の自殺とアラエル戦敗北(これはレイプと重なる描写)の二つがある。このトラウマを抱え、だからこそ強迫観念に囚われているキャラクターだとアスカを考えることができるだろう。

戦闘力や評価にこだわり、虚勢混じりであろうが自信家でもある彼女の権威的な振る舞いは「ペニスを持った女性ーーファリック・ウーマン」と思われる。彼女の戦う動機の根底には母の自殺という体験がある。
であるならば、彼女は「ファリック・マザー」として扱われるのだろうか。
彼女は大人の女性ではなく、「戦闘美少女」の枠を飛び出さない幼児・少女性を持っている。だが同時に、力押しのアマゾネス的戦闘スタイルや、旧劇場版『Air/まごころを、君に』ラストの「気持ち悪い」の台詞など、「ファリック・マザー」的行動も取っている。

自分自身の理解不足という可能性を抜きにすれば、少女から大人への過渡期という揺らぎの時期だからなのか、あるいは「ファリック・ガールズ」と「ファリック・マザー」が両立するということだろうか。

G・ガルシア・マルケス『百年の孤独』

G・ガルシア・マルケス百年の孤独』を読んだ。大作。

南米の架空の村マコンドの盛衰がマジックリアリズムの手法で描かれている作品。この方法の代表作であり、かくいう自分もマジックリアリズムってどんなんかなーと調べていた過程で知った。

似た手法(ジャンル?)のファンタジーなら、たぶんある境界を越えることで現実にはない世界に行くんだと思う。『ハリー・ポッター』シリーズのキングズ・クロス駅の九と四分の三番線だとか、『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズの未来人、宇宙人、超能力者だとか。不思議なことのない現実世界と、不思議なことばかりの非現実世界の境目が明確になっている。

対して、マジックリアリズムでは非現実はあくまでリアリズム、現実のものとして扱われている。ジプシーたちが村に持ってくるのは空を飛ぶ絨毯だし、長雨で水を含みすぎた空気中を魚は泳いでいく。現実的な場面と幻想的な場面が地続きになって、マコンドの生活が描かれる。現実の誇張による幻想化、というらしい。

マコンドはホセ・アルカディオ・ブエンディアから始まり、最後には豚の尻尾をもつアウレリャノが生まれる。
この血筋に連なる人物たちはほぼ全てが愛を成立させられない内に死ぬ。ホセ・アルカディオの次男であるアウレリャノ大佐は自分の地位によって各地に十七人の息子(アウレリャノ)をもうけ、マコンド成立時からいる女のピラル・テルネラとの間にアウレリャノ・ホセを産ませる。彼女は長男のホセ・アルカディオとの間にも子供をつくる。後に四世代目をつくるアルカディオだ。

マコンド二世代目の兄弟であるホセ・アルカディオ、アウレリャノ大佐はいずれも正妻との間に子をつくれずに終わる。
愛した相手とは結ばれず、愛せない相手とばかり結ばれ血筋を続かせる。それが社会情勢に流されながら繰り返されるのだ。
ホセ・アルカディオの又従兄弟であり妻のウルスラは、愛情の不通や社会情勢の繰り返しに「時間はぐるぐるめぐっている」と感じる。

アルカディオの曾孫のアウレリャノ・バビロニアとその叔母であるアマランタ・ウルスラの息子が豚の尻尾のアウレリャノであり、近親姦から始まった血統は近親姦を最後に村と一緒に滅ぶ。恐らくもっとも長く生き、大きな影響力を持ったウルスラはこの作品のたくさんある芯のうち一つを無意識につかんでいたのだろう。

この罪の家系の滅びには、全てが風に吹き飛ばされて昇天するショッキングなこのラストがふさわしいと感じる。ノアの箱船や終末と重ねられるらしいが、むしろ小町娘のレメディオスがシーツと一緒に風に乗って消えるシーンを思い出した。うら寂しさよりはどこか爽やかな終わり。

近親相姦、忘却、クーデター、恋愛など膨大なモチーフが永劫回帰し、それが宿命に回収されていく、といった絵が最後に明かされる展開にぞくぞくした。正直、明確なストーリーをつかみきれず、人物も多く、だれていた中で、嵐によって一瞬で全てが無になる流れにはガツンときた。

ただ、自分の未熟さかもしれないが、それぞれの個人にクローズアップされない分、この人はどういう気持ちでいるのかがまったくつかめない部分があってつまずきそうにはなった。アウレリャノ・バビロニアをなぜアマランタ・ウルスラは受け入れたのだろう。一言で終わらせるにはあまりにも強すぎないか、宿命。
個人の感情は宿命には抗えずに流されてしまうということ? これは実感するのは難しい…。

ドラマチックな物語というよりは、マコンドの生活の中に自分が入っていって、熱帯の強すぎる日差しとか乾いた土とかを楽しんじゃうくらいの方がいいかもしれない。
はぁるばる来たぜマコンド~♪
そんなノリで。

映画『たまこラブストーリー』

記念すべき初感想は京アニの『たまこラブストーリー』。テレビシリーズ『たまこまーけっと』の劇場続編。監督は引き続き山田尚子

今さら、と思ったけれど、面白かった。
実写的な演出が監督の持ち味らしく、かなりカメラ的なシーンもあったりしてかなり新鮮だった。教室内が早回しで流れていくところでは、動く他人と動かずに物思いにふける二人の対比がより強調されていたし、コミカルさを削らないでいたのも印象的。

あらすじはデラが帰ってからの、たまこともち蔵の恋愛を進路を絡めた日常、というものなのだけれど。
すっごい不穏。
というのも、みどりがもち蔵に好意を抱いている描写が繰り返され、しかもいつでも奪いに行ける立ち位置にいるのだ。三角関係に陥る崖っぷち、そのぎりぎりのラインの緊張感が、日常の下に常にある。福の餅を喉につまらせるエピソードの後に、みどりが大福を喉につまらせるふりをするシーンがある。これを無邪気ないたずらと見るには無理があるだろう。

たまこがもち蔵の好意を素直に受け入れる、という過程がかなり丁寧に描かれているけれど、その裏にはみどりの葛藤が強く匂わされている。
けれど、けっしてこの子は悪い子にはならない。
みどりともち蔵、二人の会話の直後に彼女は自己嫌悪していると呟く。この描写が、みどりを良い子に留めている。

両立されたみどりの良い子と良い子ではない部分がとても魅力的だ。たまこやかんな達が魅力的なのと同じくらい。

恋愛を主題にして、三角関係を描くこともできた。しかし、それではこの作品の日常の下にある感情のヒダや、登場人物それぞれの愛しさは成立しがたくなるだろう。誰も悪者にならない優しい世界が完成している。
テレビシリーズのお気楽極楽太平楽なあの日常を壊さないで、小さな描写の積み重ねがドラマを作っている。