太宰治「道化の華」

 読んだ。すげーなこれ、すげーつくりしてるな。びっくり。

 さて、今回は太宰治の「道化の華」。作品の構造は多層構造で、大庭葉蔵を主人公とするパートと、それを小説として書いている僕の語りが入り交じりながら話は展開していく。

「大庭葉蔵はベツドのうへに坐つて、沖を見ていた。沖は雨でけむつていた。
 夢より醒め、僕はこの数行を読み返し、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思ひをする。」

 違う語りが交互に展開する、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』よりもこの二つを隔てる境界線は曖昧だ。葉蔵の物語を読んでいると、次の行で作者の僕が叫んでいたりする。読者は葉蔵の物語を読みながら、僕の言葉を聞くことになる。

 大庭葉蔵というのは、太宰の代表作である『人間失格』の主人公の名である。完全な同一視はできないが、女性との心中を経て一人だけ生き残ることや、社会主義運動、画家等の点で共通点も多い。多分「道化の華」が『人間失格』に繋がっていく。

 葉蔵は女性、園との心中のために海に飛び込むが一人だけが助かり、病院に送られる。その数日間を描いた作品だ。『人間失格』の後半の場面と酷似している。
 葉蔵はどこか飄々としながらも脆く、語り手は彼と彼の友人を救いたくて小説を書く。しかし語り手自身の言わば弱さからその試みは挫折してしまう。語り手の嘆きが繰り返し挿入される。

 空気をよくするために行われる議論、さらけ出して交わることの忌避、様々なことがままならない彼らに対し、現代の若さ、みたいなものと強い共通性をみる。葉蔵と現代の若者ではその性格の成り立ちから異なっているだろうが、私にはどうにも繋がっているように思えてならない。

笙野頼子『レストレス・ドリーム』

 「レストレス・ドリーム」、「レストレス・ゲーム」、「レストレス・ワールド」、「レストレス・エンド」の四章からなる長編。
 ゾンビがひしめく悪夢の街、スプラッタシティに閉じ込められた桃木跳蛇はロールプレイングゲームのように戦いを繰り返し、脱出を目指す。
 跳蛇の敵は街に取り込まれて死んだゾンビ、内面における男性にとっての理想の女性とされるアニマ、スプラッタシティを管理する大寺院、そして下位の者を支配・抑圧・搾取する男性である王子だ。この四者を撃破し、街を脱出することが物語の目的となる。
 スプラッタシティを支える制度は「昔々、あるところに」という言葉であり、昔話や民話から抽出された化物が悪夢を作り出している。そしてその核はシンデレラ物語だと作中で表現される。言葉によって構成された悪夢の世界がスプラッタシティなのである。だから跳蛇は言葉を食べ、それを纏い、ゾンビの言葉を変換し自らの力とするのだ。ロールプレイングゲームと表現されるこの世界のいわばラスボスを討つ最後の武器の弓矢もまた、言葉によって作られた武器であった。
 シンデレラ物語の骨子は美しい女性が換喩でもあるガラスの靴を履き、王子と結婚する、というものであろう。ここには女性は若く美しくなければならず、また本人の意思や思考すなわち「私」を持たない偽装された自我の女性が王子のものになる=幸せを手に入れることができるという固定化された男尊女卑のジェンダー差が投影されている。終盤、ゾンビたちを倒してゆく跳蛇を最も苦しめたもののひとつはアニムスーー理想の男に無理矢理履かされたガラスの靴であるが、その苦しみは、ジェンダー差によって抑圧され搾取される女性の苦痛でもある。
 このハイヒールの苦痛は現代にも呼応している。OLたちの履くハイヒールだ。昔話から現代まで女でいること、そしてそれを強要される苦痛が提示される。
 ラストシーンで跳蛇に似た女性の傍らに破壊されたハイヒールはその否定や反撃の象徴であろう。
以前読んだ『金毘羅』は日本神話を女性の抑圧の観点から読み替え、そしてそこにカウンターを行う小説であったが、『レストレス・ドリーム』はシンデレラ物語という女性のサクセスストーリーを読み替え、それを脱却するであると言えよう。

新海誠「君の名は。」

 やっと見てきました。新海の映像は本当にきれいで、アバンの彗星でちょっと泣いた。何も事件が起こってないのに!

 さて、「君の名は。」は新海誠の最新作⚫大好評上映中のアニメ映画。ネットに感想を公開する性質上、迷い混んでこられた未見の方が楽しみを奪われないようにあらすじを最小限にとどめると、地球にティアマト彗星と呼ばれる彗星が近づくなかで、飛騨に住む女子高生の三葉は東京の男子高校生の瀧と人格が入れ替わってしまう。人格の不定期な交替を繰り返しながら互いの存在は徐々に大きなものとなっていく……といったストーリー。

 新海の書く映像の美しさは誰もが認めるだろう。アバンの彗星や、夜空、東京と田舎の風景、何もかもが新海の書き換えによって非常に美しく表現されている。特に三葉から見た東京は、彼女の憧憬のフィルターもあり、ごみごみとした下層部ではなく青空に真っ直ぐ伸び、太陽を受けるビル群のきらめきがスクリーンを埋める。地方から中央へ向ける眼差しの一面がここにある。ルサンチマン混じりの華やかな都会のイメージだ。

 後半部はこれまでの新海作品のコラージュ的カットが提示される。
 俗世から離れた隠り世とされる飛騨の御神体は星を追う子どものアガルタであり、宇宙の映像はほしのこえのアップデートであり、瀧に降り注ぐ雨は言の葉の庭の御縁に降る雨を想起させる。そしてこれらの持つ「別れ」「喪失」のイメージを、過去作品の総括という形を取りながら、読み替えようとしている。

 「ほしのこえ」に始まり「言の葉の庭」まで突き詰めてきた主題が「君の名は。」で全く異なる場所に着地したことについては賛否両論だろう。ここでは賛の立場をとりたい。カタルシスを与えそうな予感を積み重ね、そこで突き放す物語の快感を与えないことで視聴者を強く揺さぶるある意味で近代文学的作風から、観客が見たいものを見せ、観客の欲しいカタルシスを美しく提示する現代サブカルへ的作風への変化は間違いなく作家⚫新海の成長であろう。
 東浩紀の指摘した<萌え>の構造がこの作品に息づいていて、これまでのデータベースを違う角度で読み込み(シミュラークルの生成に程近いものだろう)、観客を感情的に揺さぶるというプロセスに成功しているのだ。

 <萌え>、<データベース>などの概念によって成立されたウェルメイドな作品、という評価は避けられないかもしれないが、そう断ずるのは簡単なのだ。ここでは実はウェルメイドではないのでは、という風に考えたい。できるかなぁ。

 このデータベースによって支えられた「君の名は。」は瀧と三葉の恋愛が主軸に据えられているが、なぜ入れ替わり現象が瀧と三葉に起こったのか、これは即ち二人の恋愛は必然と偶然の産物で主体性がない、設定だけのものだと評価される。それが<萌え>を生成するデータベースの効用である。
誤解を生みかねない、非常によろしくないであろう表現をするなら「中身のない空疎な作品」であり、
それがウェルメイドという淡白な評価の一因であろう。

 まず入れ替わり現象について、映画内の情報を覚えている限り整理する。
①入れ替わりは週に二度ほど。
②睡眠がトリガーになる。
③入れ替わっている間の記憶は徐々になくしていく。
④入れ替わりのときに行われたことは基本的に残る。
⑤原則的に相手が死ぬと入れ替わりは起きなくなる、ただし例外的に糸守の御神体に捧げられた、相手の口噛み酒を飲めばまた入れ替わる。
⑥黄昏時、口噛み酒、御神体の条件で時間を越える。
⑦宮水家の血筋に連綿と続いていること
 の七点だろう。

 ここで重要なポイントが「境界」が大きな要素となっていることである。入れ替わりがすでに地方ー中央の境界を越境することであり、それが反復されているのだ。ここでの地方には飛騨がおかれ、中央には東京がおかれる。
 飛騨はティアマト彗星によって死の土地と化していることから、飛騨は過去であり死者の世界ともいえる。東京は飛騨に降り注ぐ彗星のことなど知らず、ティアマト彗星を美しい貴重な風景として扱っていた。

 三葉や瀧が足を踏み入れることになる御神体は隠り世、黄泉の世界だとも提示されており、入れ替わりは過去へのそこうでありながら、死者の世界と生者の世界の越境であるともいえよう。トリガーとされる睡眠も死のメタファーであろう。

 巫女という要素もまた死の世界と生の世界の越境者としておかれているし、そこには口噛み酒の生々しい体液的な性質が提示されている。また、巫女自体にも性のイメージは含まれている。

 なら瀧は? 瀧はただ運命という作者の独善によってしかロマンスの主体になりえなかったのか?

 瀧の状況を整理すると、物語開始時には頬に絆創膏をし、イタリアンでバイトをしており、バイト先の先輩の奥寺に恋をしかけていている、という非常に少ない情報だけが分かる。
 頬に絆創膏、という少年的情報について考えると、弱いくせに喧嘩っ早いという性格からそれによる怪我だと推測できる。そして絆創膏が必要になる怪我ならば口の中が切れていてもおかしくはない。

 そして性にまつわる越境をも瀧は経験する。三葉と入れ替わった瀧、つまり三葉の人格をした瀧を友人の司は「可愛かった」という旨の発言をしている。男から女へという変化を認めさせる素地が瀧にはあったのである。瀧自身、奥寺とのデートの際には、遅刻しそうになるもあわててよそ行きの服に着替えてほとんど手ぶらで家を出る、待ち合わせ場所では奥寺に手を引かれて赤面するといった行動がある。これはラブコメにおける旧時代的ヒロインの所作であり、それを瀧がなぞっているのだ。

 体液が口の中を通り、性にまつわる越境者でもあるという共通項が二人にはあったのである。


 カタストロフ回避後、過去は改変され、二人も互いを忘れてしまう。
 三葉は上京しており、瀧は就活生となるもうまくいかない。
 彼の就活がうまくいかない原因は彼自身の越境失敗にある。異界に越境し、うまく帰って来ることができないのだ。

 面接では志望理由を問われ「風景が好き」「風景に関わりたい」といった非常に素朴な、稚拙な理由である。瀧はモラトリアムを終えようとしており、大人にならなければならない。しかし「ここではないどこか」を求める焦燥や欠落によっていまだ高校生の子供のままだ。だから「瀧にはスーツが似合わない」と司や奥寺に評されてしまう。

 子供のために就職(=大人の世界)に移行できない、という状況がすでに以前の新海作品から離れている。以前ならば欠落を抱えたまま苦労せずに就職を決めてしまうか、就活さえできないだろう。瀧も就活をただしなくてはならないからしているだけかもしれないが、以前ならばただ就活をこなすことさえもしないかもしれないのだ。

 だが就活をする。神の権威によって強引に過去を修正したことによって与えられた欠落を抱えたままの瀧は、「何か」を求めている。それは実際に瀧の行動として表れている。
 過去に三葉が東京で瀧に列車内で会ったとき、瀧は単語帳を見ており、過去であることもあり三葉に気づかない。

 しかし今回は外を、モノローグを語りながら見ている。必死に探しているわけではないが、消極的かもしれないが、外に目を向けているのだ。だからこそ、並走する列車の中にいる三葉を見つけることができた。
 三葉を見かけたときの駅名表示は四ッ谷駅だったように思う。四がついていたことは確かて、これは四と死の繋がりであろうが、四から死を連想するのではなく死を四に読み替えているのだろう。
そして二人は階段で出会う。

笙野頼子『金毘羅』

 出生直後に死んだ女の子に宿った金毘羅が中年となって、自身と母金毘羅の記憶を回想していく一代記。神と仏、あるいは神同士の習合であるとされる金毘羅神が、海に生まれ落ち、死んだ女の子の中に入り込むシーンからこの小説は始まるのだが、以降のあらすじの要約は非常に難しい。  まず時系列が恐らくは意図的に一貫した時間の軸は隠されているのだ。回想中にまた回想し、語っている回想から未来を予告し、繰り返し話は脱線する。語られているエピソードそれぞれの、ストーリーとしてのまとまりは薄く感じられた。というか、読者を楽しませる作劇からは離れているように思う。話の筋を追うのではなく、もっと別の読み方をしなければ、この作品は挫折してしまうかもしれない。そしてそのためには忍耐が必要だ。それと神話の基礎知識も必要だろう。残念だが僕にはなかったけど。  『金毘羅』は私小説にカテゴライズされる作品であろう。デビューして十年芽が出なかったこと、純文学論争への言及などから、語り部と笙野が重なって読むことができる。「コレハ『私小説』デハナイ」と明記されてるため、この下敷きになったというには問題が残るものの、関連作として短篇「胸の上の前世」が挙げられよう。また、直接の続編には「私」が終盤で海に帰した「本当は男」でありながら「後世女にされた」男が語り部となる『萌神分魂譜』がある。この三作で共通して扱われる問題がジェンダーの揺らぎである。  主として、生物的な性を指すセックスと対称的に、ジェンダーは文化的・社会的な性を意味する。つまり性器の差異によって大まかに二分される雌雄・男女とは別に、その社会で「男」・「女」として相応しいとされる規範を指し、その社会が変化すればその社会で培われた規範も変化するという性質を持つ。「男らしさ」、「女らしさ」の概念である。  「胸の上の前世」においては自分がヘテロ――異性愛者だと確信を得た夜の夢で女性だった「私」は男となって男と恋をすることとなる。  『金毘羅』では「私」は乗っ取った女の子の家で「本当は男」である女として育つことを強要される。  『萌神分魂譜』の語り部は前述したとおり、「本当は男」でありながら「後世女にされた」男である。  自認していないジェンダーを纏って生きることは強い違和感や苦痛を伴う。だが、女であることのみでデメリットを与えられることがある。『金毘羅』内では「女子が料理を作って男子がそれを食べる」という活動のエピソードに顕著である。自由課題の時間に投票で、男の方が多いのだから多数決では男が絶対勝つ投票でそう決まったため、「私」を含む女子は簡単なものしか作らないことにしてサンドイッチを作る。大量の作業。だが当日になって知らん顔をしていた一人の男子が「嬉々として料理を作っている無知な女達」を拒否した。 (以下引用)  まったく迷惑だよ、男だって料理なんか出来るのにさ、というもう家事さえ出来たらジェンダーバイアスを全部克服出来たと思い込むのが彼らの特徴です。というか当時はそういう難しい理論はなかったので、そういう男は「色気づいた女子のプロポーズまみれの料理を食わされて将来寄生されたくないねえ、だって僕平等主義者で馬鹿女とは違うのだ」というご立派な態度を取っているだけなのでした。或いは私、つまり「担当の女子」がブスだったので切れただけかもしれませんが。  彼は市販のプリンとホイップクリームを持ってきて泡立て、サクランボの缶を切ってプリンにそれとクリームをあしらいました。「あーきれいだ、ふん、こっちはこっちでやるからね」、「まったくさあ迷惑なんだよ女子は」――汚いものを見るように白目をちらちらさせてこの「差別的な企画に参加している(せざるを得ないだけの)汚い女達」に嫌悪を表す相手は、しかし断言するがどうしたって美少年ではありません。土俗な顔です。もとい、ぶさいくーなどっつらです。 (引用ここまで)  そして「私」はこの男子に卵を茹でていたお湯を「別に自分の意志でなく相当量掛けた」。この顛末は作品の象徴的なシーンでもある。
 「選挙」とも表現される教室という体制の権力を持つ男によって女は従わされ、見えないことにされた彼女たちの意志は勝手に解釈され、支配されてしまう。それに対する反抗、カウンターとしての「私」のあり方がここに表れている。  「私」自身でもある「金毘羅」は神仏習合や分離によって神話から抹消され、別の権力を持つ神に統合された見えない神の残滓や怨念であるとされる。それを「私」は「カウンター神」と称する。大勢の人間を動かす力という権力を持つマスコミ・オカルト、恐らくは性の対象として搾取される女性たちを消費するという意味でのロリコンへかけられる熱湯。そしてそのための祈りの一環として猫の置物が登場する。「私」は猫にかなりの愛情を注いでおり、それはただ愛するというよりも自分がカウンターであるための守り神的効能を持っているかもしれない。  この「カウンター神」の確立は、十五歳の「私」が経験した宗教論争の相手であった「老人」が持つ私的信仰が影響している。「私」はある山を訪れるが、そこで出会った「老人」は九州にしかないはずのタカマガハラを、ここがそうだと言って譲らなかった。それは何故だったのか、「私」はこう考えている。 (以下引用)  どの村でもどの登山口でも自分の祖先がいる山が彼らの各々の、全国各地の数だけある、タカマガハラだ。そしてそこが彼のいる場所で彼にとっては世界の中心だ。彼がそこをタカマガハラと呼ぶ限り、彼は国家からタカマガハラを奪還し、自分のものとし、自分が国家に奪われた宗教とプライドを取り戻しているのだ、その世界では彼が最も高貴で愛される存在なのだ、と。 (引用ここまで)  その経験を持つ「私」は伊勢での画一的な信仰イメージを佐倉市で崩されたこともあり、出雲神話を極めて私的に、「自分の夢の中で自分の心理の中でどのように暗示をかけどのように納得して耐えていくか。それだけのために」「神話を読み替えた」。「反逆神道」とも「私」は言う。 オオナンジとオオクニヌシの関係を「私」は独自に解釈し、「私」は日本の、神話を含んだ歴史を「女の功績を消す、奪う歴史として」定義する。「私」は女が戦い生き残っていく試みとして神話の読み替えを行ったのである。

三島由紀夫『豊穣の海』第三巻「暁の寺」

 三島由紀夫の手がけた大河小説、「世界解釈の小説」四部作。第一巻「春の雪」は一年生、第二巻「奔馬」は二年生と一年ごとに読み進め、三年の夏に第三巻「暁の寺」。大学生活のライフワークみたいになっている。

 悲恋によって本田は親友の清顕を喪い、その生まれ変わりの勲はテロの末に自害。そして勲は熱帯の王女、ジン・ジャンに転生していた。幼い頃は勲の記憶を持っていたようだが、終戦後に成長して日本に留学した彼女は前世をすっかり忘れていた。本田は彼女を可愛がるようになり、生まれ変わりの真偽を確かめるために画策する。

 この小説を貫く一つのモチーフが視線である。西洋芸術において男は見るものであり、女は見られるものである。これは今期の授業で知った。芸術論の教授に感謝。
 そう考えれば見るもの、に自身をおこうとする本田は男性性への固執を読み取ることができるだろう。そしてジン・ジャン=清顕は一貫して見られるもの、女性におかれる。

 黒子の有無が本田にとって大きな問題になるのも、ここに関連してくる。本田は法意識、すなわち一般常識、規範…男は女とまぐわうべき、という思想のもと組まれた法律と理性のもとで生きてきた男であり、当時の同性愛を取り巻く状況からみても、とても自身が同性愛者=非男性だと認めることはできない。
 それを可能にする装置として転生はあるのではないか。男を愛することを厳重に隠蔽する強制異性愛装置としての転生譚。

 ここでゲイである(といわれる)三島由紀夫と作品を結びつけるような、ある意味で安易な流れにならないよう、ゲイ的想像力としての根拠を述べるならば、青春時代を共に過ごした男を巡って親友の男が人生を動かされる、という四部作を貫く感情のエネルギーがすでにゲイ的だ。
 愛についての厳密な定義を僕は知らないが、肉欲を伴った愛情としてはある存在への強い思い入れがあること、が挙げられるだろう。「春の雪」で清顕を看取り、「奔馬」で勲のために職業を変え、「暁の寺」でジン・ジャンに肉欲を向ける。しかもジン・ジャンには清顕、勲の影が絶えずちらつく。清顕を源流に持たない、純粋なジン・ジャンに果たして本田は熱烈な関心を持つだろうか。

 ゲイ的想像力の根拠を「暁の寺」内部からも挙げるならば、今西の「性の千年王国」と炎である。この国では美しい男女は性奴隷として飼われ、しかも書物は禁止されているため、知(観念)がないことで肉体(実体)は激しく強調されている。終盤でこの国は今西の観念の中で崩壊する。観念、すなわち知、本田の規範である異性愛の勝利である。清顕の実体は女性であるジン・ジャンであり、女性を本田は愛することになる。異性愛万歳。ジン・ジャンを愛したとき異性愛の世界は完成する。世界解釈はなされる。

 だが彼女の体に転生の証である黒子を見つけた直後に火事が起きた。他ならぬ今西の寝煙草による火事の炎は、タイで見た葬儀の炎と重なり、実体を失わせ、観念の存在とする浄化の炎が洋館を燃やした。実体と観念の力関係が逆転する。異性愛願望は燃え尽くされ、富士山は冬の観念の姿を失わず、また本田は観念=非実体の清顕を愛することから逃れられないのである。

小森陽一『大人のための国語教科書 あの名作の"アブない"読み方!』

 森鴎外舞姫』、夏目漱石『こころ』、芥川龍之介羅生門』、宮沢賢治「永訣の朝」、中島敦山月記』の定番教材とされる五作がここで取り上げられ、学校で行われる国語・文学教育の批判。
 僕が学校で触れた教材は『羅生門』と『山月記』、それから『こころ』だ。「永訣の朝」の項目は全文掲載だったから読むことができたが、『舞姫』は触らなかった。いつか読んで、それからその項目に戻ろう。

 読めたところはほとんど全部が面白かった。「国語教科書の闇」で高校の文学教材、小説教材は近代的自我を中心に組まれているという。なるほど下人はお上に使われていて法に縛られていた身から、自分の意思をもって悪となるし男となるし、李徴もまた自分のエゴに苦しめられ、尊大な羞恥心と臆病な自尊心によって虎になってしまう。三角関係の果てのKの自殺という過去を持った先生は明治の精神に殉死を遂げる。

 この三つは近代的自我というタームが大きく関わっている。そしてそれは、高校国語の総決算的定番教材、高校によっては擬古文や内容のために触れられないこともある『舞姫』へと繋がっていく。近代的自我の芽生えと挫折という主題である。
高校国語は教科書の手引きにおいてあらかじめ設定された主題を読み取ることに偏っていると本書では指摘している。そしてその扱い方に、ある問いが投げかけられている。

 その読みは誰のものなのか。

 文学には正解はなくて、自由に読んでいいとよく聞く。少なくとも僕の回りでは。教職課程の友人でさえそう考えていた。
 だが僕はそうではないと強く思う。正解はないかもしれない、でも正当性は問われ続けるし、読みの評価もされる。どうしてそう読んだのか? どう考えたらそう読めるのか? というふうに。

 自由というのは感性のままに、倫理観のままに、読んでいいということではない。先にあげた言説を僕なりに言い換えると、自分で論理立てて考えることに正解がない、となる。
 その論理や問題意識は紛れもなく読者である自分だけのものであり、ここが多分勘違いするポイントなのだろう。

 文学を通した正解探しではなく、文学を読むことそれ自体に食い込んだ一冊。
 『こころ』の同性愛問題、『羅生門』の天皇制への反旗、「永訣の朝」では妹の存在、『山月記』の袁傪の人間性と、学校教育では扱われなかった同じ作品の読みが展開される。天皇問題や賢治神話、李徴と袁傪の関係。

 ゼミの先生(もう他大学にいらっしゃるけれど)も口を酸っぱくして、「文学は道徳から離れることが大事」とおっしゃっていた。
 教育では道徳や倫理からは外れてしまうと失格である。文学と教育をいかにしてスムーズに接続していくのか、という一連の問題が本書の根底にある。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

 言わずと知れた、日本童話の金字塔。学校に通いながら病床の母親との生活費を稼ぐジョバンニと、親友のカムパネルラは銀河鉄道に乗って天上へ向かう、という話。

 賢治は厳しく豊穣な自然や、それを侵略する人間文明をよく扱う。これは賢治自身の文明や身体への嫌悪があるだろう。誤解を恐れず書けば、自然アゲで人間サゲの文学だ(こんな言い方はしてはいけない)。

 「銀河鉄道の夜」は賢治の晩年の作である。改稿を繰り返しているから何が晩年の作で何が晩年の作でないのかは分かれるかもしれないがとりあえずのところで。
 賢治の童話はどこか苛烈だ。「なめとこ山の熊」における命のやり取り、「やまなし」での食物連鎖、「どんぐりと山猫」の断絶。摂理は幸福なばかりではないのだ。

 「銀河鉄道の夜」では、そのある意味で棘のような苛烈さが円熟しており、外界の冷たさや、人間文明との距離はあっても、断固拒絶の態度はなりをひそめている。鳥を捕らえ、ジョバンニの切符に驚く即物的とも言える感性を持った鳥取りにジョバンニは幸せを祈る。その瞬間鳥捕りは消滅する。作品世界に合わせるならば昇天というべきか。

 鳥捕りは物質の世界に生きており、恐らくは天上に向かうときでもそれは変わらなかったのだろう。だがジョバンニは損得勘定もなしに鳥捕りの幸せを願った。精神の価値を願われ、鳥捕りの魂は一段上に上がったのだ。

 また、このシーンでは、銀河鉄道とは何なのかが匂わされる。
 「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通行券です。こいつをお持もちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」

 ジョバンニは三次空間から銀河鉄道に乗っているが、銀河鉄道自体は不完全な幻想第四次と言われる。
 三次空間は三次元すなわち現実世界であり、物質の世界である。その一段上の世界が四次、精神の世界である。不完全な幻想、という言葉から彼岸のシミュレーション、人工的な精神世界が銀河鉄道の道のりと言えよう。